和文朗読時間345分
cd6枚組
¥3300円
英文朗読時間251分
cd4枚組
¥3300円
制作 ことのは出版
新渡戸稲造がドイツ留学中にベルギーの法学者から言われた、
「宗教教育の無い日本はどのようにして道徳を教えてゆくのですか?」
という質問をうけ、新渡戸稲造はすぐに答えることが出来ませんでした。
キリスト教信者である新渡戸稲造は、宗教によって確立されていた道徳心と、
日本の道徳心について考えました。
自分の根本にあるもの=武士、侍の国だった日本にある。
と考え、出来上がったのが「武士道」です。
そして1900年Bushido:the soul of japan を刊行するとたちまち人気がでて、
各国で翻訳されました。
セオドア・ローズベルトはこの『武士道』にとても共感し、
日露戦争の講和に尽力しました。
同じくジョン・F・ケネディ大統領も、『武士道』を座右の書の一つに挙げているなど、数々の著名人達が愛読していました。
その後、1938年に新渡戸稲造の門下生である矢内原忠雄が翻訳版を出しています。
日本人の道徳心、精神を外国の人に知ってもらうべく書かれた作品は発売当初から現代まで、
国内外問わず広く愛されている作品です。
武士道
明治33年(1900)、フィラデルフィアの出版社から発行された武士道は、
日清戦争勝利や北清事変における日本人の見事な振る舞いもあって大きな反響を呼ぶことのなり、
世界各国で翻訳されました。
明治37年(1904)の日露戦争の時に米大統領セオドア・ルーズベルトが、
『武士道』を読んで感銘を受け、アメリカが日露講和に一役買ったのはよく知られるお話となっています。
現在ではマンガ、翻訳版など様々な形でいまも国内外で愛される作品です。
武士道 現代語訳 翻訳 山本博文
武士道 翻訳 岬 龍一郎
など
漫画
武士道 まんがで読破 著 新渡戸稲造
武士道 まんがでわかる新渡戸稲造「武士道」 作画涼原ミハル
武士道 まんがで人生がかわる!武士道 作画 カネダ工房
など
新渡戸稲造とは
武士道を書いたことと、旧5000円札の肖像画が新渡戸稲造なのはご存じの方も多いと思いますが、
新渡戸稲造が何者なのかまでは知らない方も多いのでは無いでしょうか。
そこで今回は新渡戸稲造の生涯と、武士道の制作までをお伝えします。
新渡戸稲造武士道執筆まで
幕末の文久2(1862)年、岩手県盛岡市に生まれた新渡戸(幼名稲之助)は、
祖父が江戸で材木商として成功した裕福な家庭で育ち、家には西洋の文物があったことから英語に興味を持ちました。
明治維新後の明治4(1871)年わずか9歳で叔父を頼り上京しました。
その時に名前を稲造に改めました。
13歳のときには東京英語学校で英語を学び、
「少年よ大志を抱け」の名言で有名なクラーク先生の居る札幌農学校に二期生として入学し、
農学を学ぶとともにクリスチャンとして入信。
明治17(1884)年22歳のころには「太平洋の架け橋になりたい」と、アメリカの大学、
ジョンズ・ホプキンス大学へ進学するも、
札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学します。
(キリストの集会に通い始め、後に妻となるメアリー・エルキントンと出会う。)
官費でドイツへ留学し、ボン大学などで聴講した後、ハレ大学で農業経済学の博士号を得りました。
明治24(1891)年29歳のときにアメリカでメアリーと結婚し、
研究にいそしむ毎日を送りますが、多忙のあまり精神を病んでしまい、
アメリカで療養していた明治33(1900)年に「武士道」を英語で執筆しました。
新渡戸稲造は硬骨漢だった!?
札幌農学校でのある日のこと。
「右の者、学費滞納につき可及速やかに学費を払うべし」と、新渡戸稲造の名前が張ってありました。
俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか!!!と、叫んで皆の前でその紙を破り捨て、
退学の一歩手前までいってしまいます。
しかし友人達のおかげでなんとか退学は免れることができました。
その他にも、教授と論争で熱くなり殴り合いに発展してしまうなど、なかなか熱い男だったようです。
そんなことから、周りからはアクチーブ(活動家)とあだ名をつけられていたようです。
アクチーブからモンクに変貌
周りからアクチーブというあだ名で呼ばれていた新渡戸稲造でしたが、
入学前からキリスト教をに興味を持っていた新渡戸稲造はクラーク先生の残した「イエスを信ずるものの誓約」に
早速署名し、キリスト教に深い感銘を受け、どんどんのめり込んでいきました。
学校で喧嘩が発生すると仲裁に入り、「キリストは争ってはいけない」となだめたりと
入学当初とは似ても似つかない姿に変貌し、その頃のあだ名はアクチーブでなくなったことから、
友人の内村鑑三等がモンク(修道士)と決めました。
士道は成文法ではなく、また1人の人間によって作られたものではなく、
数十年、数百年にわたる日本の歴史の中で、武士の生き方として自発的に発達したものです。
新渡戸は武士道を一言で言うと「武士の掟」、「高き身分の者に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)」であると述べています。
武士道の始まり
新渡戸によると、日本の封建制度は源頼朝(1147~1199年)が鎌倉幕府を開いたときが武士道の初めとしています。
鎌倉幕府により、武士が世の中の中心になっていきます。
武士は戦うことが専門ですが、好き勝手に戦うだけでは社会が成立しないので、
武士の間で「フェアプレイの精神」が求められるようになりました。
少しずつ、武士の生活の中に武士道となる道徳律が生まれていきました。
武士道は仏教・神道・儒教の影響を受けている
武士道は上記のように少しずつ作られていくだけではなく、元(影響をうけている)になった考え方が存在します。
仏教 仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に従う心を与えた。
神道 主君に対する忠義・祖先に対する尊敬・親に対する孝心など
神道は武士道の中に忠誠心と愛国心を徹底的に吹き込んでいる。
儒教 新渡戸稲造によると、武士道にもっとも影響を与えたのは儒教だったそうです。
儒教とは古代の中国の孔子の思想に基づく教えのことです。
武士道には義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義という7つの徳があります。
徳とは人間の優れた精神性のことで、
言葉をひとつづつ当てているのは、
「仁・義・礼・知・心」の「五常」
を説く儒教の影響です。
一つずつ解説していきます。
人として必ず守らなければならないこと。武士の掟の中でも最も重要視されていました。最も大事であると共に、人として守らなければならないものはどんな事かははっきりと定義されていません。
武士道を支えるもう一つ。武士道での「勇」の意味は、正しきことをなすことをさしています。それと同時に何事にも動じない精神のことでもあります。
「仁」は人を思いやること。武士達は正義や公平さをもつことなく慈愛に溺れることは戒められました。
新渡戸稲造によると、「礼」は他を思いやる心が外へ表れたものでなければならないとなっています。礼の最高の形は愛に近づくものでした。
「誠」はじの通り、言ったことを成すという意味です。嘘やごまかしは卑怯者とみなされていました。「武士の一言」であることはそれだけでその言葉が真実である事を証明していました。
命以上に大事な価値。名誉とは人間の尊厳であり幼児の頃から教え込まれていたした。「恥」の感覚を教えることで養われていました。
「忠義」とは自分を犠牲にしてまでも主君に従えるということです。これは日本の武士特有のものです。
武士道は一部に時代錯誤な所もありますが、今の世の中にもまだまだ武士道は残っているとおもいます。
例えば、悪いことをしようとしている人、してる人を見かけたとき「やめなさい」と
言ったとき、そこには「義」と「勇」があります。
分かり易く言えば、注意する正義感と、声をかける勇気といったところでしょうか。
言ったこと、約束事などをしっかり守る「誠」の精神を持った誠実な人。
「仁」をもって部下に接する上司や、恩人に「忠義」を尽くす人も居ると思います。
今生きてる私たちの中にも武士道の徳が確かに存在しています。
日本人に生まれたなら是非とも聴いて欲しい「武士道」!!!
聴いたその日から日常生活が変わるかもしれません。