朗読
桜悟
三好翼
菅原拓磨
制作:ことのは出版
朗読時間639分
評論家でもある菊池寛が選りすぐった日本の戦いベスト16を解説している作品です。
合戦や内乱など、菊池寛が選りすぐった戦いが全集では埋め込まれています。
面白いところの一つが、戦いが前代に近づけば近づくほど描写が細かくなります。
歴史ファンは必聴です!
菊池寛は1888年香川県に生まれました。
菊池の最大の功績といえば、文芸雑誌の代表格『文藝春秋』を立ち上げ、
作家が目標とする芥川賞、直木賞を作り出した大物です。
実業家でありながら、小説家、劇作家、ジャーナリストと、
幅広く活躍した方です。
代表作は、
『父帰る』、『忠直卿行状記』、 『恩讐の彼方に』、『真珠夫人』などがあります。
その他の朗読作品はこちら
「能とは何か」 著:夢野久作
その他の朗読作品はこちら
「鬼平犯科帳シリーズ」 著:池波正太郎
「プリズンホテルシリーズ」 著:浅田次郎
「季節のない街」 著:山本周五郎
本当に実在していたとは信じられないほどの物語です。
ページ数で言うと約40ページほどにしか満たないですが、涙無くしては終われない切なさでいっぱいのお話です。
最後の最後まで豊臣秀吉について行った名将の男の話です。
前知識が無くても存分に楽しめます。
真田幸村とは一体どんな人物だったのでしょうか?
皆さん名前は聞いたことありますよね。
有名な真田幸村ですが、実は前半生は不明なことばかりで、はっきりとしていません。
複数の説が存在するようです。
だだ一つ分かっていることは亡くなったのがだいたい45歳前後であったことです。
また、母についても曖昧な表記が多く、さまざまな説があるようです。
父は、武田家に従えていた信濃の国衆・真田昌幸だそうです。
幼少期をどんな風に送って来たのかも不明だそうです。
謎の多い家族です。
本名知ってますか?
「真田幸村」の名前があまりにも広く知られていますが、
実は「信繁」が正しいみたいです。
生前の史料の中には「幸村」という名が使われているものはありません。
死の前日まで「信繁」と名乗っていたことも確認されているそうです。
ではなぜ「幸村」となったのか?
「幸村」名前が見られるようになったのは夏の陣が終わって60年近く経った1672年に
刊行された、軍記物の『難波戦記』が初出と言われています。
そこからまたまた「幸村」という名前に説得力があることから、諸説誕生しました。
詳しく知りたい方はWikipediaをご覧ください。
その後、時代が過ぎていき「幸村」という名前があまりにも定着してしまったため、
江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や
兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用することになりました。
「日本一の兵(つわもの)」
真田幸村は大坂の陣で活躍し、「日本一の兵(つわもの)」と言われた武将でした。
戦国時代の最後の戦いを飾った武将でしたので、半ば伝説のようになってしまい、
その結果美化して書かれることの多い人物になってしまいました。
真田幸村は強くてかっこいい謎のおおい武将だったですね。
応仁の乱とは、室町時代中期に起こった戦いです。
「戦国時代がスタートしたきっかけ」と言われている戦いでもあります。
長い長い戦いでした。
その結果として、官職が上がったり、領地が増えたり・・・ということはなく、得した人は
誰一人としていないように思います。
勝敗すらつかない無駄な戦いだったとまで言われています。
敵味方がくるくると変わり複雑なのでおさらいしていかないと置いて行かれます。笑
そして、
ここから日本は100以上も続く戦国時代に突入していくのでした・・・。
江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦であります。
島原・天草の乱、島原・天草一揆とも言われています。
何故大規模な一揆が起こったのか。
戦国時代に入り、九州地方には度々白人のキリスト教宣教師が来航していました。
布教活動の末、有馬氏。大村氏などの各地の大名がキリスト教を公認しました。
その結果、住民の間に広がり、信者が急増しました。
白人による日本侵略を警戒した豊臣・徳川各政権によって徐々にキリスト教は規制されることになりました。
江戸時代にはいると、キリストは完全禁止になってしまいます。
しかし、九州地方の住民の間ではキリスト教への信仰が根強く、
地元の大名達はキリシタンへの徹底的な取り調べ、処罰を繰り返すのでした。
そんな中に、乱の中心であった島原・天草地方の領主であった松倉勝家や寺沢堅高は、
住民に対し過酷な年貢や税の取り立てを行っていました。
また、納められないと住民を火あぶりや水責めなどの拷問にかけていたのです。
おおまかにこの二つの経緯から、住民達の領地への不満が爆発してしまいます。
この乱を治めるのに約半年かかりました。
この反乱は幕府の外交政策以外にも大きな影響をおよぼしました。
この乱の1年半後、幕府はポルトガル人を日本から追い出し、本格的な鎖国を始める体制を取り始めます・・・。
「本能寺の変」からわずか11日後に起こった戦いが「山崎の戦い」です。
山崎という場所で、明智光秀軍と羽柴秀吉軍が衝突した戦いです。
さてどっちが勝ったでしょう?
合戦は僅か1日でおわりました。
1614年11月の大坂冬の陣に始まり、1615年5月の大坂夏の陣で終結した戦国時代最後の戦いです。
徳川家康、秀忠を大将とした江戸幕府方と、豊臣秀頼を大将とした豊臣方が大坂付近で激突した大合戦です。
この戦いにより、豊臣家は滅亡し、戦国時代から続いた大規模な武力衝突がなくなり戦国時代の幕を下ろしました。
冬の陣で和平交渉が成立した後も、徳川は大砲を作らせたり、着実に次の戦いに向けて準備をしていました。
一方豊臣側では、戦に勝てないと思い、辞退した者や、冬の陣で解雇された者が多く兵力は当初よりも格段に下がっていました。
そして戦に敗れ豊臣家は滅亡しました。
1570年夏、織田信長と浅井長政が滋賀県の姉川付近でおこなった戦いを「姉川の戦い」といいます。
信長軍には豊臣秀吉や徳川家康などが参加していました。
中々に強そうです。
戦い自体は9時間ほどで決着がつき、織田軍が勝利を収めます。
しかし、浅井軍はこの戦い以降約4年間織田信長と争うことになってしまい、最終的には破れ、
浅井家は滅亡してしまいます。
「この説根切り、眼前に候」(武田の根絶は、目の前である。)
1575年5月、現在の愛知県にあたる長篠城に、
武田勝頼率いる軍隊が15000越えという巨大勢力が襲いかかりました。
長篠城は信州から三河の入口にあたるので、ここを落とすことができれば、
武田軍は自由に三河に侵入できるようになります。
この地を守っていた徳川家康はなんとしても武田軍を阻止しなければいけませんでした。
しかしお城にはわずか500人。
徳川の本拠地にも5000人ほどしかおらず状況は絶望的でした。
そこで徳川家康は同盟関係にあった織田信長に援軍要請をします。
そして5月の14日に信長の30000人の大軍団が三河に到着しました。
尾張を中心に勢力を広げていた織田信長にとっても、武田の存在は厄介であり、脅威でした。
そのため彼にとってもこの戦いは非常に今後のために重要で意気込んでいました。
その時に言った言葉が、「この説根切り、眼前に候」です。
そして5月21日の朝にとうとう戦いが始まります。
両軍は三河の設楽原でぶつかったために「長篠設楽原の戦い」とも呼ばれています。
兵力では圧倒的に織田信長・徳川家康軍が勝っていましたが安心はできませんでした。
武田軍には強力な騎馬隊がいたのです。
その騎馬隊に以前徳川家康は敗れていたのです。
ハラハラドキドキの戦いが始まると思っていた徳川家康でしたが、
織田信長率いる軍は最強の騎馬隊に対して3000丁ともいわれる鉄砲を駆使して8時間ほどで勝利を収めました。
さすが織田信長です・・・。
一般的には「小田原攻め」や「小田原征伐」と言われているこの戦いは、
豊臣秀吉の天下統一の総仕上げと言っても過言ではありません。
名家である北条との小田原城を舞台にした戦いです。
天下統一を目指す豊臣秀吉にとって最後の壁が小田原の北条でした。
豊臣秀吉は北条に豊臣の下につくようにと通達をしますが、北条は聞き入れませんでした。
そしてお互いは戦闘態勢に入っていくのでした。
スケールの違う戦い方をされた北条は負けてしまいました。
その後の北条は滅亡してしまいます。
しかし徳川家康は、
「武田信玄は父を裏切り、勝頼には家臣がついて来なかった。
それに比べ北条は、裏切り者は松田憲秀ただ一人。
武田は手段を選ばなかったが、北条は恩義と名分を重んじた」
と評していました。
領民からも広く愛され、裏切ったのはたった一人。
唯一裏切ったのは、家老の松田憲秀だけだったそうです。
また豊臣秀吉も内心では北条のことを一目置いていたそうです。
激しい戦いがありながらも、認めるところは認めるって素敵です。
南北朝時代の1348年に南朝方の楠木正行と北朝方(室町幕府)足利尊氏の家臣高師直との間でおこった戦いです。
四條畷の戦いでは、楠木軍3千の兵に対し、幕府軍は6万の兵…。
戦力の差は歴然ということもあり、さすがの楠木正行も死を決意したそうです。
幕府軍の大将が影武者を立てていて、
大将を討ち取り損ねたこと、
また6万の敵に押し包まれたことで、
ついに楠木正行も限界を迎えることになりました。
そして最期は弟・正時と刺し違えて自決してしまいます。
清須会議で対立してしまった豊臣秀吉と柴田勝家。
織田家の家臣たちはそれぞれに文派し、遂に戦に発展してしまいます。
敗北した勝家は、妻である信長の妹のお市と共に自害に追い込まれる事となってしまう・・・。
1560年に桶狭間で織田信長と今川義元の間で行われた戦いのことです。
その当時は小さな国ひとつを治めていた織田信長が、
有名な武将である今川義元を破り、後に江戸幕府を開く徳川家康を始め、
多くの武将に影響を与えることになった戦いでもあります。
織田信長がまだ有名になる前の1555年、
毛利元就と陶晴賢の間で厳島の戦いと呼ばれる壮絶な戦いが繰り広げられていました。
この戦いは戦国時代において三大奇襲戦と呼ばれています。
圧倒的不利な中での戦で見事毛利軍は勝利を収めました。
一説によると毛利軍4000人に対し、陶軍は20000人と言われています。
そのまま戦っても負けは確実なので毛利軍は作戦を考えました。
それが、戦地であり戦いの名前にもなっている厳島におびき寄せることです。
この土地は平坦な場所が少ないため大軍で攻め入っても身動きがとれなくなります。
そこで一気に攻め込むという作戦でした。
作戦は見事に成功し攻め入ることができました。
1553年から1564年の間に起きた、甲斐の武将・武田信玄と、
越後の武将・上杉謙信の5回にわたる合戦です。
もともとは、北信濃の支配権をめぐり武田信玄と村上義清が抗争をくり広げていましたが、
敗れた村上が越後の上杉謙信に助けを求めたことがきっかけになったそうです。
戦いのなかで、お互いを生涯の敵かつ無二のライバルと認めあった彼らの戦いは、
謎を残しつつ、今なお多くの人に語り継がれて研究が続けられています。
実は明確にどちらが勝ったかは勝敗がでていません。
しかし、奪い合っていた信濃は武田信玄が制圧したので、
実質的な勝者は武田信玄だと言われたいます。
大久保率いる明治政府は、日本を近代国家にするために、
改革を次々と行いました。
その改革の一つが、「土農工商」という古い身分制度を廃止して、「四民平等」という、
近代国家の基礎を作る改革でした。
この「四民平等」の制度により、侍達は次々と特権(刀を持つ権利など)を奪われていきます。
侍のなかの侍「戊辰戦争の英雄」とまで言われた西郷隆盛を暗殺しようとします。
侍だけでなく、日本中から人気のあったそうです。
この二つに激怒した「薩摩土族」は西郷隆盛を中心に西南戦争を開始しました。
その中でも田原坂の戦いは現在の熊本県熊本市北区植木町で行われた「西南戦争」最大の戦でした。
鹿児島を出た14000人の軍団は熊本城を攻撃します。
この城を守っていた谷干城は政府に援軍を要請ました。
この戦いは政府軍対薩摩軍で行われ、激闘の末政府軍が勝利を収めました。
政府軍は見事熊本城救援に成功できました。
この戦いが勝敗の分かれ道となり、薩摩軍は敗北の道を進むことになっていくのでした・・・。
文禄2年1月26日、碧蹄館の戦いが勃発しました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵である文禄の役において、日本軍対朝鮮軍の歴史に残る戦いは始まりました。
立花宗茂、小早川隆景、黒田長政、宇喜多秀家、
石田三成、大谷吉継など、多士済々な戦国武将たちが、
おのれの家名や所領のためではなく
「日本の武士」として戦いに挑みました。
「籠城か」「迎撃か」で軍議が荒れますが、
「日本人として恥ずかしい戦い方ができようか」と「迎撃」することを選びました。
そして朝鮮へと向かいました。
朝鮮の勢力が150000に対し、日本軍は41000と明らかな勢力の差がありました。
しかし日本には歴戦の名将と、厳しい戦国時代を数多くの合戦でくぐり抜けた「経験」がありました。
その「経験」を生かし、日本は奇跡的な勝利を収めました。
江戸時代が終わり、明治時代が始まる歴史の転換点でもある「戊辰戦争」
その戊辰戦争の始まりのきっかけが「鳥羽伏見の戦い」です。
この「鳥羽伏見の戦い」は「薩摩軍」と「旧幕府軍」の戦いです。
「新撰組」も旧幕府軍と一緒になって薩摩軍と戦っていました。
旧幕府軍が圧倒的有利な立場にありましたが、薩摩軍が大逆転を収めました。